最近、将棋からすこし離れていました。一局も指さない日が続きました。
久しぶりに盤面に向かうと、自分の中で変化がありました。
まず手筋を忘れている。
この局面では、何か手筋があったはずだと薄っすら覚えているが、正確には思い出せないこともある。仕方ないので、ゼロから手探りで考え出す。戦場付近だけでなく、盤面全体や情勢も、自然と見るようになる。すると、既成の手筋に囚われず、それより良い手を指せることも出てくる。
対局履歴の柵もない。
前回これで失敗しただとか、もう一度上手く決めてやろうとか、今回これで攻めようだとか、そんな戦いの思惑は頭に浮かばない。うっすらこんな感じで攻めればいいのかなとは思うが、決まりきった手順はすっかり忘れている。その瞬間瞬間なにが良い手だろうかと、じっくり考えだすしかない。すると、無理の無い良い手を指すことも増えてくる。
駒は、単なる盤面の記号。
そんな風にも思えてくる。記号の意味はもちろんある。情勢を表わすために必要なだけ。それを勘定すればいい。駒は、兵士として存在していない。駒を活かすとか、死んでいるとか、人間ではないから当てはまらない。役に立っていない駒は、見捨てるのではなく、単に効果の薄い記号なだけ。駒を切るのではなく、別の駒を入手した方が良さそうなので、そのように使うだけ。駒に愛着を感じない。たとえ飛車が取られそうでも、勝利の役に立たないなら、別に痛くも痒くもないということに気づく。自玉が詰まなければいい。あとは何であれ、どうでもいいといえば、どうでもいい事柄。その自玉さえ、このゲームの中の勝敗を判定する単なる記号に過ぎない。
将棋はどんなゲームなのか。
それもなんだか忘れている範疇に入る。そういえば、先に王を詰ませた方が勝ちだったよなと思いだす。勝てばいい。勝つためにどうしよう。戦法だとか、方針だとか、よく分からなない。先に詰ますという観点だけで盤面を見つめ始める。駒はそのための道具に過ぎない。すると、まっすぐ相手玉に辿りつく良い手を指せることもある。
